多禰 多褹(たね)|日本史用語集
多禰 多褹(たね)の解説
7世紀末に律令政府に服属した鹿児島県大隅諸島の種子島やその周辺の島々。
多禰が初めて文献に登場したのは『日本書紀』の天武六年二月条の「是の月、多禰嶋人等に飛鳥寺の西の槻の下に饗へたまう」という記述である。
また、『日本書紀』の天武十年八月二十日の条に「多禰嶋に遣わした使節が、多禰国の地図を(天武天皇に)たてまつる」とあり、使者は一年以上多禰嶋に滞在して南島の調査等を行い報告の為の地図を作製したとされている。 多禰の服属の前後、奄美・掖玖(屋久島)、信覚(石垣島)、度感(徳之島)、球美(久米島)など南西諸島が服属した。
多禰は、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、隼人対策などの点から重要視されていたが、隼人の対策が一段落し、遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。
大宰府管内の飢饉に対処するため、財政の見直しの観点から824年に多禰島司を廃止し能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。