朱雀大路|日本史用語集
朱雀大路
朱雀大路は、都城の中央を南北に走る大路で、大路の東側を左京、西側を右京に分けた。また、北端が大内裏正門の朱雀門、南端が都城正門である羅城門であった。
日本には遣隋使、遣唐使により条坊制が伝えられ、藤原京造営時に最初に採用された。 朱雀大路は他国の外交使節に国力を誇示するために幅が大きく作られたとされ、同様に、大嘗祭の際や軍隊の出征や凱旋といった際に利用され、朝廷の権威発揚の場となった。
なお、中国の長安の朱雀大路は幅が147メートルであったが、藤原京では2〜30メートルしかなかった。しかし、平城京では73メートル、平安京では82メートルと次第に拡大していった。この幅の広さは国家威信と現実の国力の兼ね合いから、「長安の半分」を意図して設定されたという学説もある。
朱雀大路の両側には柳が植えられており、排水溝もあったが、これらの清掃などの維持管理は沿道住民の義務とされた。また、公卿を覗いては大路に面して門を作ることが禁止されていたので、通りに面しては築地塀が続いていた。
羅城門以南は、平安京では鳥羽作道につながっていた。